LOGIN 御影家で迎えた最初の朝、
静かな朝だった。
枕元の小箱へ目を向ける。 その中には、昨夜、朔から渡された離縁状が収められていた。――妻にしたからといって、お前のすべてが俺のものになったわけではない。
昨夜の低い声が、もう一度耳の奥で蘇る。 麗香はそっと小箱の蓋を閉じた。身支度を終えて階下へ降りると、食堂にはすでに朔がいた。
軍服姿で新聞へ目を通している。「おはようございます」
「ああ」相変わらず簡潔な返事だった。
麗香が向かいの席へ腰掛けたところで、廊下の向こうから足音が近づいてきた。「兄様」
若い女の声だっ
翌日――。「お前の母親について、調べようと思っている」 夕食後に朔が切り出すと、麗香の表情が変わった。「お母様を……?」「ああ。お前の真の父親についてもだ」 麗香は何も言わなかった。「知りたいか」「……」「お前が望まないなら、調べない」 麗香が驚いたように朔を見る。 やがて、胸元で重ねていた指へ視線を落とした。「……怖くない、と申し上げれば嘘になります」「ああ」「けれど」 ゆっくりと顔を上げる。「知りたいです」 その声に、迷いは残っていた。 それでも麗香は、はっきりと言った。「私が誰の娘なのか。お母様が、なぜ何もお話しにならなかったのか」「分かった」 朔は頷いた。◇ 御影家の書斎で話を聞き終えた清雅は、椅子の背へ身体を預けた。「人探しは外務省の仕事ではないんだけれどね」「お前は顔が広い」「便利屋扱いされている気がするなあ」 口ではそう言いながら、清雅は既に持参した手帳を開いている。 朔は自分の作戦を告げた。「桐生家へ正式に記録を求める」「素直に出してくれるかな」「出さないなら、それも手掛かりになる」 清雅が口元を上げる。「なるほど」「それとは別に、お前の方でも調べてくれ」「分かったよ。戸籍だけでなく、華族関係の記録も当たってみよう」 清雅は手帳へ何かを書きつけながら、ふと顔を上げた。「ところで、離縁はしないんだね?」「しない」 即答すると、清雅が目を瞬き、そして笑った。「何だ」「いや。以前より答えが早くなったと思って」「何の話だ」「運命の番と麗香さん。どち
翌朝になっても、麗香の中で何かが変わったという実感はなかった。 鏡に映る顔も、黒い髪も、香りを持たない身体も昨日までと何も変わらない。 ただ、自分が誰の娘なのか分からなくなった。 それだけで、足元にあったはずの地面が、音もなく消えてしまったようだった。「お母様……」 麗香は母の白磁の香炉を手に取った。 淡い桜の枝が描かれた、小さな香炉。 母が自分を愛してくれていたことだけは、疑わなくていい。 けれど、考えてみれば。 麗香は、母が桐生家へ来る以前のことをほとんど知らなかった。 母の生家。 幼い頃の話。 どのように和馬と出会い、妻となったのか。 尋ねたことがなかったわけではない。 けれど母はいつも、どこか寂しそうに笑って話を逸らした。 そして和馬もまた、麗香へ母のことを語ったことなど、一度もなかった。 ――私は、何も知らなかったのですね。 母のことも。 自分自身のことさえも。 扉が控えめに叩かれた。「麗香姉様?」「小夜さん」 入ってきた小夜は、麗香の顔を見るなり眉を下げた。「お加減はいかがですか」「大丈夫ですわ」「……昨日から、皆にそればかりおっしゃっています」 麗香は答えに詰まった。 小夜は麗香の隣へ腰を下ろす。「姉様。私は、よく分かりません」「何が、でしょう」「麗香姉様が桐生家の血を引いていなかったからといって、それで何が変わるのです?」 麗香は瞬いた。「だって、私に勉強を教えてくださったことも、お母様の香箱を探してくださったことも、全部なくなるわけではありませんもの」 あまりに真っ直ぐな言葉だった。 麗香は微笑もうとして。 うまくできなかった。「ありがとうございます」「それに」
朝餉の席で、麗香は急須へ手を伸ばした。 同時に、向かいから伸びてきた手と触れる。「……あ」 朔の指だった。 二人の手が、揃って止まる。「申し訳ございません」「いや」 どちらからともなく手を引いた。 ただそれだけのことなのに、指先が妙に熱い。 麗香は俯きながら、先日のことを思い出していた。 暴れ馬から庇われた時の腕。 あの夜と同じ香り。 そして、香りを確かめるためだと言って、自分の手首を取った朔。「……」「……」 二人の間に、何とも言えない沈黙が落ちる。 隣に座る小夜が、麗香を見て、次に兄を見た。 そして、何か言いたげに口を開きかけた、その時だった。「旦那様」 女中頭の志乃が静かに入ってくる。 その表情が、僅かに硬い。「桐生家より、使いの方がお見えでございます」 麗香の胸が冷えた。◇ 使者は、桐生家の家令だった。 幼い頃から何度も見た顔である。 だが男は麗香と目が合っても、以前のように頭を下げることはなかった。「桐生家当主、桐生和馬様より、御影家ご当主へ」 差し出された封書を、朔が受け取る。 使者はそれだけで役目を終えたように一礼した。「返事は」「必要ないとのことでございます」 朔の眉が僅かに動く。「そうか」 家令が退出する。 麗香は閉じた扉を見つめていた。 胸の奥に、嫌なものが広がっていく。「麗香」「……はい」「お前もいた方がいい」 朔はそう言って封を切った。 紙を開く音だけが、書斎に響く。 初めは、いつもと変わらない
数日後。 朔と清雅を乗せた自動車は、帝都の大通りを外れ、古い屋敷の並ぶ一角で停まった。「まさか君と二人で、帝都を女探しして回る日が来るとは思わなかったよ」 車を降りながら、清雅が笑う。「帰ってもいいぞ」「冗談だよ。ここまで来て追い返さないでくれ」 新しく見つかった証言者は、かつて近隣の華族家へ長く仕えていた老女だった。今は息子夫婦と暮らしているという。 二人が案内された小さな座敷で、老女は何度か記憶を辿るように目を細めた。「ええ。覚えております。まだ朝も早い頃でした」「どんな女だった」「お若い方でございました。黒い髪の……身なりからして、良いお家のお嬢様だったのではないかと」「顔は?」「申し訳ございません。ずっと俯いておられましたので」 朔は黙って続きを待った。「ただ、妙に襟元を気にしていらして。こう……人から見えないようにするような」 老女が自分の首元へ手を添える。 朔の眉が動いた。「他には?」「……香りでございますね」「香り?」 清雅が聞き返す。「はい。それはもう、強い香りでございました。香水や焚き物ではございません。長く華族様のお屋敷へ勤めておりましたから、あれが契りの香だということくらいは分かります」 朔と清雅が視線を交わした。「道の反対側にいた私にも分かるほどでございました」 あの夜、理性を奪われるほど強く感じた香り。 彼女は翌朝になっても、それほど強い香りを纏っていたということか。「その女性が、桐生家のご長女だった可能性はありませんか」 清雅が尋ねると、老女は困ったように眉を下げた。「失礼ながら……それは、ないのではないでしょうか」「なぜそう思う」「桐生家のご長女様は、契りの香をお持ちでないと
午後の陸軍省。 朔の机には、翌月に予定されている演習の計画書が積み上げられていた。 参加する部隊の編制。物資の輸送経路。各隊の移動予定時刻。 一つ判断を誤れば、夥しい人数の動きに影響する。普段の朔ならば、余計なことなど考えず、一枚ずつ処理していく仕事だった。 だが。 同じ一行を、もう三度読んでいる。 紙面に並ぶ数字を目で追っていたはずが、気づけば脳裏には別のものが浮かんでいた。 ――あの香り。 暴れ馬から麗香を庇い、腕の中へ抱き込んだ瞬間。 確かに香った。 冷たい夜気の中で初めて出会った、あの女と同じ香りが。 腕の中の感触も。 震える声も。 触れた時、胸の奥に生まれる奇妙な懐かしさも。 何もかもが、あの夜と重なった。「……少将閣下」 呼ばれて、朔は顔を上げた。 書類を抱えた副官が、机の前に立っている。「何だ」「いえ。その頁に、何か問題でもございましたでしょうか」「問題?」「先ほどから、随分長くご覧になっておられますので」 朔は手元へ視線を戻した。 何の変哲もない演習計画書。 しかも、自分が既に一度目を通した箇所だった。「……いや。何でもない」「は」 副官は敬礼して退室する。 扉が閉じてから、朔は小さく息を吐いた。 軍務の最中に、同じ箇所を三度も読むなど、自分らしくもない。 それも原因が、妻のことだとは。 朔はもう一度、計画書へ目を落とした。 だが、数字の向こうには、やはり麗香の姿が浮かぶ。 あの時。 確かに、あの女と同じ香りがした。 だが。 麗香には、契りの香がない。 首筋にも、あの夜に自分が残したはずの印はなかった。 ならば、違う。 そう判断するしかないはずだった。
翌朝になっても、麗香の耳には朔の声が残っていた。『……この香り』『……まさか』 あれは聞き間違いではない。 自分だけが、何かを思い出したわけではなかったのだ。 朝餉の席で向かいに座る朔を、麗香はそっと窺う。 いつもと変わらない顔で新聞を読んでいる。 けれど、頁をめくる手には昨日の傷を覆う包帯が巻かれていた。「……お手は、痛みませんか」「ああ。この程度なら問題ない」「そうですか」 会話が途切れる。 昨日までなら、それでよかった。 けれど今は、聞きたいことがある。 ――朔様。 昨日、何を感じたのですか。 もしかして、あの夜――。「麗香」「はいっ」「どうした」「……いいえ」 麗香は視線を落とした。「何でもございません」 結局、聞けなかった。 朔の口からはっきりと、自分ではないと言われることが怖かった。◇ 昼を過ぎた頃。 御影家を訪ねてきたのは、久世清雅だった。「昨日は大変だったそうだね」 居間へ通された清雅は、麗香の姿を見るなりそう言った。「お怪我は?」「私は何も。朔様が庇ってくださいましたから」「そうか。それはよかった」 清雅は安堵したように笑い、それから朔の右手へ目を向ける。「なるほど。麗香さんを庇って名誉の負傷というわけだ」「うるさい」 いつもの二人だった。 麗香も思わず微笑む。 けれど。「それと、朔。頼まれていた件だけれど」 清雅の声音が僅かに変わった。 麗香の胸が、小さく鳴る。「例の女性については、まだ決め手になるものは見つかっていな